余部鉄橋の歴史

1912年の完成から約100年間、JR山陰本線を見守り続けてきた余部鉄橋。2010年には新しくコンクリート橋に架け替えられましたが、JR餘部駅側の3本の橋脚は現地保存され、余部鉄橋「空の駅」展望施設として生まれ変わりました。余部橋梁下には、公園もあり橋脚跡を利用した東屋や芝生張りの自由広場でゆったりとした時間を過ごすことが出来ます。

今は主要な観光スポットにもなっている余部鉄橋。そんな余部鉄橋の歴史をご紹介します。



余部鉄橋の歴史

余部鉄橋の完成

香美町香住区余部にある鉄橋。JR山陰本線の鎧駅と餘部駅との間に位置しています。全長309.4m、橋脚の高さ41.5mで、トレッスル式鉄橋と しては日本一の規模を誇り、山陰本線の名物です。鉄橋は、余部集落をまたいで東西の山に架け渡され、東側に東下谷トンネル、西側に餘部駅があります。

明治42年12月着工。アメリカより輸入した鉄材を使用し、機械力の乏しい前近代的工法の中にあって、当時最高の技術を駆使。明治45年1月に完成しました。明治45年1月28日、試運転を実施。2両連結の機関車が運転されました。同年3月1日香住~久谷(新温泉町)間の営業が開始され、山陰本線は全通となりました。工事には、33万1,000円の費用(現在地に現橋梁と同じものを建設する場合の工事費用概算:42億円)と工夫25万人を要しました。

Column

余部鉄橋設計者:鉄道院・技術研究所 技師 古川晴一氏

●兵庫県生まれ 明治14年工部省工技生養成所卒業後、橋梁技術史に大きな足跡を残したイギリス人ポーナルの下で設計技術を修得。明治30年鉄道院軌制取調委員、明治40年頃鉄道院技術部の分科長、大正4年退官後、石川島造船所技術顧問、昭和14年没。

●古川技師は、当初トレッスル(橋脚)相互間は約12mで設計していましたが、高架橋の経験が乏しく検討の余地があったため、アメリカに出張。フィ ラデルフィアの橋梁技師、P.L.Wolfel(ポール・エルウオルフェル)の意見によりトレッスル間隔は、約18mに修正されました。

●米子出張所技師 岡村信三郎氏が、潮風を受ける余部陸橋は将来の保守を考えると鉄筋コンクリート橋が有利と上申しましたが採用とならず、建設費の安価な鉄橋とすることになり、古川技師が設計を担当することとなりました。

鉄橋が通勤路

余部鉄橋開通時に駅はなく、通勤する人たち等は列車の合間を縫って余部鉄橋を歩いて渡り、約1.8km離れた隣の鎧駅まで線路を歩いて通っていました。地上40mの鉄橋の上も真っ暗なトンネルを通る時も、地元の人たちはまくら木の間隔を体が覚えていて難なく歩くことができました。

餘部駅の完成

  • 余部駅一番列車(昭和33年4月撮影)

余部鉄橋ができた当時は今のように駅はなく、隣の鎧駅まで余部鉄橋を歩いて渡っていました。不便な生活が続いていた昭和30年、余部の人々は当時の 国鉄に駅の設置を強く働きかけ、さらに余部小学校児童も当時の県知事に駅設置を願う手紙を書くなどした結果、ようやく餘部駅ができることになりました。

子どもと大人が一緒に力を合わせ、海から石を運び、駅までの道やホームをつくりあげ、昭和34年餘部駅が誕生しました。念願の一番列車が到着し、村中総出で歓迎、大喜びしました。

余部鉄橋の保守

但馬地方特有の不順な天候に加えて日本海から吹きつける潮風で鋼製の鉄橋はさびやすく腐食しやすい環境でした。また、戦時中の材料不足で保持は容易 ではありませんでしたが、上倉音吉氏、望月保吉氏、山﨑彦人氏ら専任の鉄橋守の努力によって荒廃を最小限にくい止めることができました。昭和32(1957)年から3次にわたる修繕長期計画によって部材の抜本的取り替えなどを行い、その結果鉄橋は新しく生まれ変わりました。橋げたや支柱など重 要部材は当時のままです。

悔やみきれない列車転落事故

暮れもおしせまった昭和61年12月28日午後1時25分頃、福知山発浜坂行下り回送列車が余部鉄橋を走行中、最大風速約33m/s の突風にあおられて客車7両が約41m下に転落し、水産加工場と民家を直撃しました。この事故により、水産加工場で働く地元の女性従業員5名と車掌1名の尊い生命が奪われ、6名が重傷を負いました。転落したのは、山陰お買い物ツアーの臨時お座敷列車「みやび」の団体用客車。176名の乗客が香住駅で下車した直後の出来事でした。この悲惨な事故をきっかけに、風速による運行規制は25m/s から20m/s となりましたが、それにより特に冬季に集中して列車の遅延・運休本数が大幅に増加し、列車運行の安全性と定時性の確保が大きな課題となりました。現在事故現場には、犠牲者の慰霊と、事故が二度と起こることのないようにと願いを込め、聖観世音菩薩が安置されています。

余部鉄橋から新余部橋梁へ

  • 新 余部橋梁
  • 展望施設「空の駅」
  • 展望施設「空の駅」
  • 展望施設「空の駅」

余部鉄橋は列車運行規制風速が20m/sに定められており、特に冬季間の強風時には列車の遅延、運休がたびたび発生していました。列車運行の安全性向上と定時性の確保を図るため、平成3年に「余部鉄橋対策協議会」が設立され、専門家による調査検討が行われました。協議会では、旧橋梁に防風壁を設置することも含め様々な技術検討がなされた結果、防風壁を備えたコンクリート製の新橋梁に架け替えを行うことになりました。新しい橋梁の形式は、これまでの余部鉄橋のイメージ「直線で構成されたシンプルな美しさ」と「風景に溶け込む透明感」を継承する橋をデザインコンセプトとし、耐風性などに優れることなどから、エクストラドーズドPC橋が採用されています。定時性を確保するため、透明なアクリル製の防風壁を設置し、風速30m/sでの列車運行が可能となりました。こうして新余部橋梁は、日本一の余部鉄橋の誇りを受け継ぎ平成22年8月12日から運用が開始されました。余部鉄橋同様、“空中列車”としての眺望も美しく新たな余部のシンボルとなっています。現地保存されている3本の橋脚は、展望施設「空の駅」として活用されています。



思い出の余部鉄橋

さようなら寝台特急「出雲号」


昭和47年3月、山陰地方~東京間を山陰本線経由で結ぶ寝台特急としてデビューし、地元の東京方面への足として活躍してきた寝台特急「出雲号」。 平成18年(2006年)3月18日(土)朝7時25分、その別れを惜しむように少し遅れて余部鉄橋を通過。多くのファンに見送られながら走り去っていきました。


・余部鉄橋下からの眺め


余部鉄橋下から眺めた映像。写っているのはJR山陰本線普通列車キハ47 2連。 浜坂方には加古川色(ブルー)の車両。転属後しばらくは元の塗装で運用されました。


・想い出のあまるべ号

平成19年(2007年)3月24日から4月1日に豊岡駅~浜坂駅間で運行された「想い出のあまるべ号」の映像です。

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